2009年01月

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 1月24日 曇り

8時半起床
ホテルの朝食ビュッフェに
和・洋・中とブースにわかれている。
えーーーと??何にしようかな?

いつものようにパンとコーヒー 目玉焼き・サラダ・・・
・・・と思っていてもついつい色んなものに手がでてしまう。

フルーツもたくさん頂き・・・
りんごはお持ち帰り・・・
満腹~ 

今日の予定を相棒に・・・

   相棒  ”弾丸ツアーや。 時間に限りがございますよ~”
   私   ”わかってます。今日はちと、ハードかも?心しておいて下さい。”

10時半にホテルを出発。
歩いて10分  MRT"忠孝新生駅”へ
途中、大学の構内などを見ながら。。。テクテク

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忠孝新生駅から1駅の”忠孝復興駅”へ
この駅は乗り換え駅ということもあり、かなり大きい。
デパート(太平洋SOGO)に地下街・ファッションビルと・・・
SOGOの地下街”県泰豊”と明日の九分行きのバスターミナルをチェック。
場所もばっちり、わかったし、九分へは15分毎にバスが出ている。

明日は朝、ホテル→タクシー故宮→タクシーで忠孝復興駅
その後バスで九分へ・・

明日のスケジュールはばっちりOK!

その後、MRTで新政府駅へ
新政府からはシャトルバスで世界一高いビル ”タイペイ101”へ
   
5階までは有名ブランドのお店が・・・
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そこから別のエレベーターでいっきに88階まで・・・僅か30秒でいっちゃいます。
あいにくの曇り空。
       中央に圓山大飯店が・・・
  
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世界一らしいけれどそんなに高く感じない?? https://livedoor.blogimg.jp/ashiyalapaz/imgs/e/0/e0ed9bb8.jpg
なんで? まわりの建物が低いからかな?

WTC(ニューヨーク・ワールド・トレードセンター)に上った時は感動しまくり、
遠くニュージャージー・自由の女神などと・・・
なみだ目になったんだけど・・・

ただ、ここの凄そうなのはカウントダウンの夜、101ビルの花火
これは必見の価値が有りそうです。
ポスターで見たのですがビルごと仕掛け花火?
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そんなこんなでいまいちと言いながら
高いところ大好きの私、思いのほか長居をしてしまった。
大変だーー 時間が大きくずれてきたーー

次はMRTに乗って”台大医院”下車
228和平公園を散歩しながら中正祈念堂へ・・・
このへんは大きな主要な建物(総統府など)が多く、
東門のロータリーからの景色がいいとか?
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テクテク歩いて大中至正門へ
でかい!!
正門から見る中正記念堂はすごい!

今日から衛兵の交代式が復活と聞き、4時の式典を・・・

             *陸軍はカーキ、海軍は白、空軍は青の制服。
    全員が息を揃えて動き短剣を回す姿は超ーかっこいいです。
    この時、海軍はいませんでした。

その後、記念堂、裏手の小籠包の屋台"杭州小籠湯包”へ


写真 1: 世界一"タイペイ101 508m
   2: 大中至正門
   3: 衛兵交代式

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台湾に行ってきました。

1月23日 曇り

  19:10関空発 → 21:15台北(桃園空港)着  JL653便  3h

10分遅れで台北の桃園空港に・・・
初台湾でーす

両替をさっさと済ませ
タイミング良く、10時発のリムジンバスで・・・
・・・ていうか普通のローカルバスのようです。https://livedoor.blogimg.jp/ashiyalapaz/imgs/1/e/1e12dabf.jpg
         

普通のバス停に停車。
お客さんは降りるし・・・又、乗り込んでくるし・・・
バス停の名前は見当たらないし?・・・

運転手さんの近くに座ってMRT(地下鉄) ”忠孝新生駅”のメモを見せて・・・
1時間位で無事下車。
バス代 135台湾ドル(NT$)約370円           1NT$=約2.7円

"忠孝新生駅からホテル"ミラマーガーデン”までタクシーでNT$70  200円弱

桃園空港、電車が直結してなくてちょっと不便なんだよね~
まあ、関空にしても電車よりバスのほうが断然便利ですが・・

ホテルには夜11時半くらいに到着。  チェックイン https://livedoor.blogimg.jp/ashiyalapaz/imgs/2/0/20f488fc.jpg
           

荷物を置いてさっそく夜市に・・・

フロントでホテル周りのマップをもらって出発!

ホテルの裏通りに"中山女子高” バス停を発見!
ここから、九分へはバスで直接行けるそうです。

少し歩いたらなにやら店の前で深夜にもかかわらず沢山の人が並んでいる。
いきなり、雑誌にも掲載されてた牛肉麺の店だ。"林東芳牛肉麺”
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うーーん。もう少し歩いて第一目的の海鮮料理店を探さなくっちゃ~

4~5分のところに遼ニン夜市が・・・
南北500mくらいの小さめの夜市だけど結構にぎわってる。
その中ほどに海鮮料理店を発見!

店員さんが"何人?どの魚?この魚、美味しいよ~”

ゆっくり、店先に盛られてる魚の品定めもできないし、
こんな深夜にいきなり、これはちと胃に重たすぎる。

見るだけよ~
・・・退散。

やっぱり、さっきのえらい賑わってた牛肉麺の店へ・・・

雑誌にも載ってた屋台風の有名店らしい。
流行ってる店は並んでいても手際よいのですぐに順番が・・・
         https://livedoor.blogimg.jp/ashiyalapaz/imgs/0/b/0b0f97b6.jpg

牛肉の厚めのスライスがしっかり煮込んでてすごく柔らかい。
麵は平らなシコシコ麺。それに牛骨のダシが絶品。
小 NT$130  大 NT$160  小菜(エーサイ)NT$30

〆て2人でNT$320  900円

美味しかった~
小なのにめちゃ、多め。満腹ーーー
  
とりあえず星☆☆☆

先ず先ずの出足だー
明日からのグルメツアー がんばりまーす。

マイミクさんの旅ブログを見てるうちに
急に台湾に行ってみたくなった。

実は初台湾なんだよな~

早速、旅行会社に・・・
結構、人気なのに驚いた。

思ってる日にちの飛行機の席が取れない。
行きが取れると・・・帰りが駄目とか・・・
なかなか、上手くいかない。

ますます、行きたくなってくる。

唯一、26日は取れるんだけど、旧正月になるので台湾のお店が閉まるところが多い。
だから空いてるのかも?  ・・・でも却下。

そうしてるうちにキャンセル待ちで23日がOK!とのこと。

選んでられないし・・・
旧正月の日に帰るので関係ないし・・・
仕事もなんとかなりそうなので即、決定!

ルンルン♪で台湾でのプランを考えていた。
(3泊4日だけど実質は24・25日の中2日間だけフリー)

マップ見ながら、予定を考えるのって楽しいな~
・・・予定もなんとなく、決まったし・・・

・・・なんて思っていたら今回の旧正月、
曜日の関係で24日から休みに突入するところが多い事を発見!
その上、25日は大晦日にあたるらしく市内のデパートですら18:00まで
有名店の休みも多い。

プラン変更!!

ならば郊外に行こうかと思っているのですが・・・
”千と千尋の・・・” のアニメで有名になった"九分”へ
だけど地元民も休みを利用して郊外に・・・
  (混んでる~?)

お正月に有馬温泉に行くようなものかもしれない。
混雑が予想されるけれど仕方ないし・・・

まあ、台湾での旧正月の大晦日を体験できるということで・・。
帰国は旧正月の元旦です。

何処かお勧めがあれば教えてくださ~い

明日の夕方便でーす。
寒そう~~

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この写真、何だと思いますか?



正解は湯たんぽ?

友人から今、ちょっとしたブーム?とやらの保温ボトルを教えてもらいました。

 ①まず、沸騰したお湯をペットボトルにいれます。
  (くれぐれもヤケドしないように気をつけて下さい。)
 
 ②トレーナーの袖口を結んでその中にペットボトルを入れます。

 はい!ペットボトルの湯たんぽ?の出来上がり。

簡単でしょう~

私は両腰に添えてベッドイン。 足元にもいいかも~

不思議なことに朝までポカポカ~
超ーーー気持ちいいですよ。

ちょっと暑いくらい。(汗)

私は寒がりなので2ヵ所ですが1個で充分かもね。
お試しあれ・・です。

環境に優しい。
エコポット?エコユタンポ?   ・・・でした。

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先日、待望の"チェ28歳の革命!”の映画を見に行ってきました。
とにかく、早く見たいという気持ちで仕事を終えてレイトショーに・・・
内容は見に行かれる人の為に・・・伏せておきます。

2時間半という時間があっという間でした。
こんな時代だからこそ、見るべき作品だと思います。

2部 " 39歳、別れの手紙”1月31日[土)封切り。
もちろん、見に行こうと思っています。

キューバ人、この映画をどのように思っているのかと
考えてしまった。
かなり、真実に近いかと思うのですが・・・
真相はわかりません。

今年で独立50周年。
つい先日、首都ハバナで式典が・・・
マイミク Mさんはそれに合わせてキューバ旅行に・・・

キューバは私達を惹きつける何かがある。
それって何だろう?

底抜けに明るい・・・どんな困難な時もじっと耐え、
音楽・ダンスに・・・情熱を傾ける・・・
そんな精神力?包容力?に感動してしまう。

(昔のアフリカの奴隷たちとかぶってしまう??)
アメリカから経済制裁をされたからと言ってアメリカそのものを拒否するわけではない。

…そんな明るく素直な・・・
私たちが忘れかけている何か持っているような気がしてならない。


チェ(ゲバラ)も凄いけれどその後50年間、社会主義を貫いているフィデル(カストロ)も凄い人だと思います。


  キューバ・チェ(ゲバラ)をあまり知らない人には
  少し、わかりにくい映画かも知れない。
  
  もし、見にいかれるのでしたら是非、下記(ウイキペディアから抜粋)を参考に・・・
  映画を倍、楽しめると思います。

ほんの50年前の革命。
グランマ号で80数名がキューバの東海岸に上陸。
その後、生き残った人々はわずか数名。
その時の人達が政権を・・・
フィデルの弟(ラウル)が今、最高責任者となった。



=== 国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見え1902年5月20日にキューバ共和たが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。

「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。


独裁者バテイスタ軍曹(1952年)
1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、カストロらの政治犯に恩赦を与えた。カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。


メキシコ亡命後、カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師の“チェ”エルネスト・ゲバラ (Ernesto "Che" Guevara Lynch) と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。

キューバ革命(1959年~)
革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。 その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。
バティスタ政権という傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。
1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻)

1962年2月3日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。
なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている ===

写真1: チェ、国連での演説シーン

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